2020.12.14最後の握手
2020.12.14最後の握手
私は以前フリーライターという仕事をしていた。
その割に読みにくい文章…と思う人も多いだろう。
私の文章にはクセがあり、調子の良いときと悪いときがわかりやすく、当時仕事を頂いていた雑誌の編集部員をよく困らせていたものだ。
フリーライターというのは、個人事業主のため仕事の依頼がなければ収入はない。
逆に、当たり前だが書いたら書いた分だけ原稿料がもらえるのでとてもやりがいのある仕事だ。
最初は栃木から東京に取材に行ったり編集部に行ったりしていたが、仕事が忙しくなってくると、東京で仕事なんて日常茶飯事で、時には関西や九州方面まで取材に行っていたので、さすがの私も都内に住むことにした。
生まれも育ちも栃木県の私がいきなり東京に住むなど、本当に大丈夫なのだろうかと普通は不安になってしまうもの。当時20代前半の私はとても行動力があったのである。
しかし、極度の方向音痴の私は取材場所に辿りつくのも一苦労で、東京の広い駅(特に新宿)は出口がいっぱいある。出口を間違えると、永遠に目的地にはたどり着けないのである。
迷うことを想定して、いつも集合場所には1時間前に着くように家を出ていたが、それでも道に迷ってしまい、冷や汗をかいた経験が何度もある。
そんな時は先輩が「お前今どこにいるの?」と連絡をくれて、迎えにきてくれていた。
「田舎者だから仕方ないな」と先輩方はよく面倒を見てくれていたのだが、
その先輩が昨年癌になった。
ずっと心配していたが、手術ですべて取ったと聞いていたのに、今年に入って転移が見つかり余命を宣告されてしまったと聞かされた。
でも、これは本人から聞いたわけではなく、同じライター仲間から聞いたもの。先輩本人とは些細なことで関係を壊してしまい、約3年直接連絡はとっていなかった。
私は連絡するべきか否か迷っていた。
『嫌いな人から連絡がきて嫌な思いをさせたくない』
『今も怒っているだろうから、連絡してしまったらまた怒らせてしまう』
と思ったからだ。
しかし、先輩のSNSを見ていると、入退院が多くなってきていて、本人曰く「年明けまで持たなそう」とのこと。
色々考えた末、やはり感謝の思いは伝えたいと思い、勇気を出して連絡をしてみることにした。すると、すぐに連絡を返してくれた先輩。
「自分は来るもの拒まずだから、最後に会おう」
と言って頂いたので、私が東京に行くべきと東京に行こうとしたのだが、最近の情勢を鑑みて先輩は気を使って栃木に来てくれたのだ。
久しぶりに会う先輩は少し痩せていて、転移した骨やリンパが痛むと足を引きずっていた。
ウナギを食べたあと、カフェで約2時間話続けた私たち。
約3年分の積もり積もった話と、東京に住んでいた時の思い出話。
私が、原稿を書けなくて悩んでいると、電話をくれてアドバイスをして頂いたこと。
終電をなくした私に始発まで飲みながら付き合ってくれたこと。
仕事現場で右も左もわからない私にいつも隣で教えてくれていたこと。
企画書を編集部に提出する時、私を誘ってくれて、何年も一緒に連載をやらせて頂いたこと。
先輩の恋人も一緒に旅行やいちご狩りに行ったこと。
私のライター時代の思い出に先輩はいつもいて、先輩がいなかったら仕事が出来ていなかったのではないかと思うほどお世話になりました。
その時の感謝を存分に伝えて、今まで連絡できなかったことも謝りました。
ウナギもカフェも、最後まで私にお金を払わせない先輩の優しさ。
「後輩に奢られるようになったら終わりだ」
と言っていたけれど、最後にお土産の冷凍餃子を渡したら
「いらない」と言いつつも、嬉しそうに受け取ってくれました。
宇都宮駅の改札で握手を交わし
「来世でもまた一緒に仕事をしよう」
と言って頂き、最後まで涙を堪えていた私も限界でした。
足を引きずりながら歩いている、弱った先輩を見ていると本当に今まで連絡しなかったことを後悔しました。
人は本当にいつどうなるかわからない。
若いから…とかも関係なく病気になったり事故に合うことだってある。
最近はコロナも他人事じゃなくなってきた。
日々周りの人に感謝をして、自身の体調管理も大事にしないと、と改めて思いました。
後悔しない人生を送るというのは難しいことかもしれないけれど、
「やらずに後悔」より「やって後悔」の方が同じ結果でも納得がいく気がする。
今日も「明日やろうは馬鹿やろう」精神で仕事を頑張ろうと思う。
(Y)
~お客様の身近な専門家 頼れるパートナー
栃木県 クレーム研修なら 有限会社エファへ~